昭和五十年十月十九日 御理解 第三十六節
「日本国中のあらゆる神を皆信ずると言うが、それは余りの信心じゃ人に物を頼むにも一人に任すとその人が力を入れて世話をしてくれる、が多くの人に頼めば相談にあけくれて物事捗らず、大工を雇っても棟梁がなければならぬ、草木も芯と言うたら一つじゃ神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けれるぞ、と。」
昔から日本国中に八百万の神様があると、それだけでなくてまた様様な仏様もおられる、八百万の神様を拝む、あらゆる仏様も拝む、あああっちはなかなか信心が手篤いなかなか信心家だと、と言う風に思うたり言ったり致します、なる程神様仏様を拝む事はそれは敬神の念と申しますかね、仏様神様を大事にする事ですから有難いのですけれども、あちらにも頼みこちらにもたのみとよく、自動車なんかに沢山の交通安全の御守りの札をぶら下げておる人がある、まあどの神にやらどの仏様にも、護ってもらわなければならんと言う事でございましょう、そう言うような決して粗末にしてよいと言う事ではないけれども、頼むと言ったならばやはり此の方一心でなからなければならんと言うのです。
ね、此の方一心。
どう言う立派な仏様に参ってもまたはどう言う有名な神様を拝まして頂いてても、拝むことはないといたしましても、自分の一身を託すると言うか、頼むと言うかと言う事は致してはならない、やはり頼むのは此の方一心でなからねばならん、しかもその一心を出すとすぐにおかげを受けられると言うところなど、わからせて貰わなければならんところだと思います。
昨夜は月次祭を終わらせてもろうて寝さして貰いました、それから昨日高橋さんのところから、丁度電話が、お祭りが済んだあといろんな面倒なと言うか、煩わしいと言うか、まあ言わば難儀と言って良いか、そう言う電話が掛かってきた、昨日は高橋さんは小倉の方の支店の方えお出られて、それから小倉の記念祭に、のお供えをことずけとりましたからそれを持って行って頂いとりましたから、ゆうべは此処に見えるのがおそかった、福岡のおうちの方には寄らず直接にこちらの方に参って見えとられる、それがお届けがあっとりましたから寝ながら、その事を願わして貰い思わして貰うておりましたら、それに対するいろんなお答えと言ったような、事頂いてそれでもう高橋さんが今着いたと言うお知らせを頂きましたから、私は寝衣の上からハッピを着てから出てこようと出て来たところえ、丁度高橋さんが見えられた。
それでその事をいろいろ聞かせてもろうて、それから私は必ず一遍どうり廻りますから、こちらえ出て参りました、食堂で若い人達が六七人もおったでしょうか、お酒を飲む人達もおれば洋酒を飲んでいる人達もおると言う、一杯やっとりました。こげんおそまで飲んでからと、私はその一瞬そう思いました、ところが今日はあの徹君の誕生日だからと言うのです、私もそうかそんなら私もかたせて貰おうかと言って、まあゆうべおそうまで今朝方まで飲んどった訳でございました。
それから私がとたんに嬉しくなったです、と言うのはです私がそこに行ってその誕生日と言う事はね、銘々が俺の誕生日だから飲みに来たと言うのじゃなくてです、今日は徹君の誕生日だからと言うて皆が、さあ一杯頂こうかと言うて皆がお祝いしてくれる事が有りがたいんだと、自分のようなものがこの世に生まれて来た、生を享けて来たと言うのに本当にこの世での御厄介もの、そう言う例えばそう言う自覚に立たせて貰う時に、自分の誕生を祝う等と言う事はおこがましい。
けれどもね人が祝福してくれる誕生でなからねばいけない、まあそう言う御理解めいたお話をさせて頂いておるところえ、おそう直方からお参りなった人がね、何とお赤飯のお供えを持ってきたんです、もう私はとたんに有り難うなったです、もう大声をあげて泣こうごたる先生はと言うて飲んだ事でした、ね。例えば秋永徹と言うお道の教師の資格を頂いた先生がです、今はどうであってもです、この氏子が生まれておったおかげで神が助かると言うような事にならん事もないです、いやなるに違いないからこそ神様が祝福してくださるんだと私は思うたです。
私は高橋さんの言うならば信心と言うまあ、昨日は大変ややこしい問題で御座いましたが その事に神様がお知らせを下さって高橋が来た、私がこちらへそのために出てこなければならんそれは高橋さんの日頃の一心が、私を動かしなさったんだと私は思うです、なら私が食堂へ出て来てからゆうべおそうまで徹君のために私が一緒に飲んでおったと言う事でもです、言うならばまあ四だ五だ生活をしとりますけど、事神様ごとだと言うとあの人は必ず出て来るです、もう普通で言うならばですもうそうではないのでしょうけれども、合楽一心とか金光様一心とか、親先生一心と言うようなものをです、彼が持っておる事をです私は今日は特に感じました。
だからこそ神様が私は祝福してくださるんだ下さるんだと思いました、私共はややもすると只目の前の事だけで言わば人を軽う見たり、又は重く見たり致しますけれども、一番間違いのないのは神様がご覧になっての彼、神様が御覧になっての私共と言う事でなからなければ、本当な事ではないのです。一心を出すと直ぐにおかげは受けられるとそれは願っておる事がです、すぐにおかげが受けられると言うのではなくて、例えば高橋さんの場合であったと一心に願った事が、そこに神様が私を起こされたりまたは高橋さんが参拝して見えたことを、神様がお知らせ下さったりこれは一心だから出来るのです。
徹君の誕生だと言っておるのにです、私がそれに参加さして貰う、さあそれからあらたにまたお肴を作ったりいろんな飲み物を出したりして、まあ祝福をさして頂いてそれでは只私が祝福したのではない、神様が私を通して祝福して下さったと言う事です。
次に集まって来たことを、栗御飯の赤飯を届いたと言う事から如何に神様が私を使って、祝福して下さる事かわかるじゃないですか。
これは言わば彼の信心が素晴らしい事じゃなくて、只一心がいつも其処に置かれてあるからだと思うです、そう言う風に直ぐにそこに働き出しなさる、直ぐに神様が動きなさる、そう言うところに私が有難いものにさして頂いて、今日の御理解を頂きました、どうかなにかと言う時にあの人にも頼もうこの人にも頼もうと言う心が、言うならそう言う雑な心とでも申しましょうか、もうここでおかげ受けられんならあそこがある、あの人にも頼んどるから、更々ないと言う事。頼むならこの方一心頼むなら合楽、頼むなら親先生、その一心が私は昨日お月次祭が終わってから高橋さんの事、徹君の事からそれを感じます。
お互いが如何にも一心のようでも直ぐ迷いが起こったり、または金光様は合楽ばかりじゃないと思うたり。
そう言う内容があっては直ぐにおかげがうけられると言う、直ぐ神様が働きなさると言う事によって、事にはなって来ないと思います、一心を出すと仰る、一心を出すと直ぐおかげが受けられる、言うなら一心腐乱と言う事なのですから、ね、もう絶対に乱れないと言う事なのですから、その思い込みが神様を私は動かすと思います、どなに熱心にどんなにあああちらはよい信心と言うてもです、そこに例えば迷い心とかまたは直ぐに心が他へ移ると言うような心ではこちらが一心のようであっても、神様が一心になって下さらないね この方一心とこちらが本当に一心と定まったときに、神様もやっぱりこの方一心と言う事になるのじゃないでしょうか、いやその氏子一心と言う事になるのじゃないでしょうか 信心にはこの一心が大事です、どうでもお互いの信心を再検討さして貰うべきですね。 どうぞ。